信頼関係を深めるために 「見る」と「見てもらってる感」


みなさん、こんにちは。鑑 樹一(かがみ みきひと)です。ここでは、コーチングや教育のことについて考えたことを書いています。


予想外に多くの方に読んでいただき、大変うれしく思っています。心より感謝申し上げます。


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小さい子が公園で一人遊んでいる。砂場で一生懸命いろんなものを作っている。頭の中はいろんな空想でいっぱいだ。夢中になって砂に手を突っ込んでいる。


ふと、我に返る。首を横に向けると、少し離れたベンチにお母さんが腰かけている。目と目があう。お母さんがにっこり微笑む。その子は安心して、また空想の世界に入り、砂と格闘する。


そしてまたしばらくすると母親の方を見る。そこには優しい笑顔がある。子供は、また、砂遊びをはじめだす。




コーチングや教育において、大事なのはこれだ。


自分のことを「見てくれている」という感覚、そう「見てもらってる感」。この感覚を与えることができるか否か。ここが勝負どころだ。


「見る」


このことの大事を知ったのは、やはり教員になって随分たってからだ。少子化が進む中で、生徒減に苦しむ学校や廃校となる学校も増えてきていた。


その対応策をさぐるため、教育のコンサルテイングを行っている企業の研修会に何度か通った。


そこで、教育の本質である「見る」ということを教わった。


当時私は、こういった企業は金もうけ主義に走っており、大したことはしていないという偏見をもっていた。


その場所で、教育においてとても大事なことを教わったのは、なんと面白いことかと思う。





そこで聞いたのは、
 生徒ひとりひとりをしっかり「見る」ことを大事にしてください。それが教育の原点です。みたいな内容。


「それは当たり前のことじゃないか。やってるし、今さら‥‥」と思った。


続けて、
成績のとてもいい子や問題のある子、目立つ子に教員はどうしても目がいく。そして声掛けもそういった子たちに傾きがちになる。


そうした中、目立たない普通の子たちは、「見てもらってる感」を感じにくいということだった。


「なるほど」と思った。そういえば、私自身真面目でおとなしい人間で、教員とそう多く接した経験はもっていなかった。


「見てもらってる感」が大事なのか。そのことは心に留まった。



そのころ、偶然だが学級通信を出し始めていた。連絡事項など一度書いておけば、毎日それを出せば、私自身も生徒も忘れることが少なくなると思ったからだ。事務的なことが楽になるという発想からはじめたことだった。


ただ、スペースを埋めるために、「いい言葉」や写真、思ったことなどを書くと、予想をはるかに越えて生徒は真剣に読むのである。


「これはいい」


ということで、結局このときから、病気で倒れるまで、ずっと通信を出すようになった。


朝、朝礼の時に通信を配って、何も話さない日もたびたびあった。


あるときの女子生徒たちの会話。
A「あー大事なあの書類もってくるの忘れちゃったー。どうしよう」
B「先生にあれだけ言われてるのに、どうしてあなた忘れるの」
C「本当よ。そうよ」


ちなみに、このことは、私は通信に書いた(消してないので毎日載っていた)だけで、一回も生徒には口で伝えていない。





私はいろいろなメッセージを書いた。
「Aさん、Bさん、昨日日直ありがとうございました。CさんDさん、今日日直どうぞよろしくお願いします」
「〇〇係りのEさん、昨日は行事でクラスのためにどうもありがとうございました」
「いつも授業や朝終礼、みんなきちんとした態度でうけてくれてありがとうございます。とてもうれしく思います」


できるだけ気が付くことは個人名もあげながら、名前を載せていった。


そして、積極的に気がつくように努力している自分がいることに気づいた。つまり、学級通信に書くために、生徒を注視するようになったのである。


それだけではない。教科担任やクラブ顧問など他の教員や保護者からもできるだけいろいろ聞いて生徒のことを知ろうとしていたのだった。


以前の私の「見る」と
通信を書き始めてからの「見る」とでは、深さが全然違ったのである。



以前の私は、「見る」ことが不足しているなんて、かけらも思っていなかった。
でも明らかに不足していたのだ。


私は生徒の書いた文章などに返事を書くように、個人名は伏せて、本人が読めば、それは私のこととわかるような、「お手紙」という題で都度都度メッセージを載せたりした。


また、いつかそのプリントや記録を見つけたら、ここで紹介させていただきたいと思います。


こういった通信の活動を続ける中で、クラスの生徒たちは落ち着いて、協力しあいながら,自分の課題にエネルギーを注ぎ、成果を高めていったのである。


自慢のようになるが
生徒の「見てもらってる感」が高まったことが、その大きな要因ではなかったかと思ったりしている。


この時の1年は私にとっても大きな意味を持つ1年となった。